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100軒マラソン File No.31

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

「もがみや」

公開日:

浅草は、年齢を重ねるほどに好きになる街です。

もともとの下町っ子たちからは、昔馴染んだ浅草の風情がずいぶんと失われているという声も聞きますが、銀座も日本橋もがらりと様変わりしてしまって、昔の街並みを思い出せない一角なんかが出てきていることを思えば、神田、浅草界隈には、まだまだ「東京」が残っているような気もするのです。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

とはいえ、ずいぶん変わったことは確かです。

雷門から浅草寺本堂までの間は、人でごった返す感じがします。昔だって混むときは混んだんですけれども、今のは混み方が違う。歩き食べをせず、互いに気持ちよくお参りしましょう、なんて放送が流れていたりする。なんだか、うるさい。

だから、ど真ん中をほんのちょっとでも避けて歩く。裏へ入れば安くてうまい食堂があり、飲み屋がある。飲み屋のメインストリート的なところは行き来する人の風情が様変わりしたけれども、一本逸れると、なかなか、いいものが残っている。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

とりわけ、観音様の裏手が、いい。

赤星100軒マラソンという、このなんとも酔狂な企画においても、以前に「ぬる燗」という名店をお訪ねしましたが、今回は、あれ以来の観音ウラ。出かける前から楽しみです。

■海の香りに思わず絶句

やって参りましたのは「もがみや」さん。その名前からして、ご出身が山形県なのかなと推測しながら入店しました。ときは11月の後半。魚介類がいよいようまくなる季節です。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

カウンターに席をとり、さっそくビールを頼みます。出てきましたのは、愛称「赤星」サッポロラガービールだ。うれしいねえ。

よく冷えたビールをさっそくコップに注ぎ、それをちょいと持ち上げて、ひとり乾杯のポーズを決める。それから、ぐいっとひと口。この一瞬の幸福感というものは、なにものにも代え難い。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

この黄金色。ほのかな苦味、それから赤星がもつ、懐かしいラガービールのうまさ。熱処理がしてあって、ガス圧が控えめで云々、あれこれうまさの秘密を勘ぐりたくもなるのですが、そこは理屈じゃない。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

迎えてくださったのは大柄で短髪のご主人、小田徳二さん。年齢は私より少し先輩とのことで、つまり、50代の半ば過ぎなのですが、若々しい。

「うちは31年やってますが、ビールは最初から赤星ですよ」

小田さんがおっしゃるとおり、ずっとこれ、という人に愛されてきたビールは、ある意味、理屈を超えているようです。

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カウンターの上のネタ箱に、見るからに新鮮な貝が並んでいる。ああ、貝のうまい季節が来たなあと、大袈裟ながら感慨をこめてため息も出る。箱の中身は、北海道は厚岸の牡蠣、こちらも北海道産のツブ貝、北寄貝、そして青森産の赤貝です。

「うちの仕入れは築地と千住の市場で、千住で手に入らないものは築地まで足を伸ばしして仕入れます。貝類も全部国産ですよ」

国産の赤貝は希少で、高級品だと伺います。それでもあのシャキシャキ感と、ほのかな潮の香りのためなら、多少の散財も厭うべきでなかろうし、第一に、そういう品を揃えてくれる店への感謝もこめて、迷わず注文するのです。

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この日の鮮魚は、キンキ、金目鯛、八戸鯖に鰆。貝の後で、どのあたりを食していくか、悩むところではありますが、まあ、そこは、飲み始めてみてのお楽しみだ。

そろそろ富山の氷見港に揚がる寒鰤も旬になる。そんなことを思い浮かべながらまたビールをひと口。待ちきれない気分になってきたところへ、やって参りました、赤貝です。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

「あああ、うまいなあ、この赤貝」

思わず口走っていました。なんだろう、これは……。なにも絶句するこたあないと思うんですが、それくらい、うまいと感じた。

牡蠣のようにするりと流し込みながら海の香りを楽しむのもいいが、赤貝は噛んだ瞬間に広がる旨味と戯れるようにして味わうのがいい。などと、日ごろ思っているのですが、その噛んだ後のほんの一瞬も省いて、ああ、うまい、の一言が浮かんだのだった。

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「貝類は、さばいた後で塩もみしてから水洗いすることが多いんですけど、うちは氷水で洗うだけ。その方が自然な香りが残るんです」

なるほど。鮮度がいいからこそ、潮の香りと海塩のほんのり丸いしょっぱさを、そのまま味わえるというわけか。素材もいいが、供する人のちょっとした心遣いが、ありがたい。

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こちらでは、貝も刺身同様に盛り合わせで頼む人が多いと聞いた。赤貝だけでこの満足感が得られるとなると、私などは、貝の盛り合わせ一皿で、いくらでも飲んでいられるような気がしてくる。

そして、実際、そうなるから、ある意味、いい歳こいて困ったもんなのですが、まあ、それくらいに感動的でしたよというお話でございます。

■驚くべき品揃えの訳

初めての店の初めての酒肴に腹の底から満足するなんてことは、幸運中の幸運というべきもので、来る前に半端な下調べなどしなくてよかったと、私は心底思った。

あそこへ行ったらあれを食べようとか、ナニガシという銘酒を飲もうとか、いろいろ思い浮かべながら出かけるのは、それ自体が酒場巡りの楽しみのひとつではあるけれど、実際に何を飲み食いするかについては、事前の勉強や目論見に縛られる必要はなく、むしろ、店内を見渡し、品書きに目を走らせたときに、思い立って、おお、これにしよう、と決めるほうが楽しい。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

こちらの店では、壁に品書きが見当たらない。その代り、手元にお寺さんの御朱印帳が置いてあって、卓上メニューになっている。見やすいんです、これが。実に 見やすい。そして、驚くべきはその内容であります。

ここまでお読みいただいた皆様には、こちらが魚介のおいしい店であること、ひいては、まだ書いてませんけれども、酒もいいものを厳選しているであろうことなど容易に想像がつくと思われますが、この店のすごいところは、そこにとどまらない。

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魚介の煮付け、焼き物はもちろんのこと、たとえばですね、あぐー豚がある。しかもトンカツ、網焼き、生姜焼き。国産黒毛和牛も、たたきはまだしも、ステーキでも供する。日本酒、焼酎はもちろん、ワインも置いているし、実は、年代物のおいしいウイスキーなどにも、ご主人の小田さんは目がない。

さらに言うならば、締めの一品に、中華ざる、中華麺温麺とありますから、あったかい中華そばと、ざるそば風の中華の両方がある。そればかりか、そうめんがあり、あんかけ焼きそばがあり、驚くべきことに、ジャージャー麺と担々麺まで、品書きに書いてあるのです。

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その訳は簡単、実はこの店、十八代目中村勘三郎さんのご贔屓で、ご主人とは長いお付き合いだったそうです。で、勘三郎さんが、無理を言う。お客さんをお連れになって、散々飲んだ後、締めにラーメンが欲しいなどと言いだすのだそうです。

そういうのを昨今じや無茶ぶりというのですが、まあ、その無茶を聞くどころか、どうせやるならうまいものをと意気に感じてふるまうのが、ご主人、小田さんの矜持と見ましたね。江戸っ子ですな。それでメニューが増えに増えた。

勘三郎さんのご存命中にこうした店で鉢合わせなんかしてみたかったなと、野暮や田舎者は叶わぬことを思い描くのでした。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

■鰆に、小肌に、金目鯛の波状攻撃

さて、赤星をもう1本。肴には鰆をいただく。

サワラは魚偏に春と書きますが、今時期から1月いっぱいくらいまでが本当にうまいのだと、小田さんに教わる。板場の手元を覗き込むことはできないが、見たい、という気持ちが伝わったのか、身を厚く切った後の包丁を見せてくれました。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

「包丁に脂が残ってますでしょ。それくらい脂ののった鰆なんですよ」

そのまま刺身でいきたいところだが、まだまだ我慢だ。

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分厚く切った切り身に鉄串を2本刺し、まずは手早くガスコンロで皮目を炙る。さらに藁に火を点けて、じっくり全体を炙る。ここまでなら、まあ、想像のつく藁焼きなのだけれど、小田さんはもうひと工夫する。火が消えて一斗缶の中で炭状になった藁を利用して、鰆をスモークするのだ。

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一斗缶はコンロにかけてあるので、下から熱せられ、藁がチップの役割を果たして、燻し焼きが完成する。どうです? 想像するだけでうまそうでしょう?

実際、うまいんですよ、抜群に。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

「最初はシンプルな藁焼きをやっていたんですけど、何かもうひとひねり、ほしいなと。それでスモークをしてみようと思いまして。この缶も、今は真っ黒ですけど、最初はピカピカだったんですよ。

もちろん自分で作りました。僕らが修業した頃は、道具は自分で作れと言われましてね。もりつけ箸なんかも自分で使いやすいように拵えたものです」

だから、一斗缶の藁焼き器も自前なのです。いい話ですよ。最初に修行に入った鮨屋さんが厳しかったことが、今に生きている。ご自分の店をもって30年余というベテランがそんな話を、ふっと、さりげなくしてくれる。こういう店、あるようでないんですよ。ありがたい。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

さて、ここらで酒を、ご主人のお母様と奥さんの出身地である山形の地酒に切り替える。銘酒「十四代」。

そこに、酢締めの小肌、刻んだガリ、千切りのきゅうり、大葉、ゴマを具材にした海苔巻きを頼む。

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有明の海苔は湿ると硬くなるからといわれ、急いで口へ放り込む。さっぱりとした酸味が、鰆の脂をリセットしてくれる。酒の肴としても十分にいける。

冷酒はあっという間に空になる。

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お代わりの酒は「朝日鷹」。本醸造とのことで、燗酒でどうかなと一瞬思った。というのも、次の酒肴を煮魚にしようと目論んでいたからです。けれど、小田さんは、この酒は冷やがうまいという。で、冷やでやったわけですが、なるほどと納得した。

実はこの酒は「十四代」の蔵元が造る普段使いというか、日常酒としての酒なのだそうですが、さすが「十四代」の蔵元と思わせる逸品なのでした。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

最後の肴は、金目鯛の煮付け。梅煮ですよ。醤油と味醂と梅干しと生姜だけでシンプルに煮付けたひと皿は、これまた抜群。もう言葉はいりません。

相当に満足して、店を出ることにしたわけですが、こぢんまりとした店だけに、予約もたくさん入っているとのこと。こちらも、予約のうえで、時間に余裕を持って出かけることに越したことないと思った次第。

この冬のうちに裏を返したい1軒が見つかって、たいへん嬉しい夜となったのでありました。

浅草・観音裏に、裏を返したい名店がまた一軒

取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行

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