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サッポロラガービール、愛称“赤星”を巡るマラソン企画も78回を数えます。そして、今回お邪魔をいたしますのは、新宿のど真ん中。東口を出てから歩いて3分もすると見つかる酒場で、なんと、開店は昭和11年という大変な老舗です。
先頃還暦を迎えた私は、ずいぶん長く新宿で飲んできたわけですけれども、恥ずかしながら、この場所に、こんな老舗があるとはつゆ知らず、初めて店へ入るときの気分は、まるで、酒場に慣れていなかった若造の頃のように新鮮です。
暖簾をくぐると、左手に大きなテーブルがあり、右手に二人がけの卓がふたつ。奥はカウンターで、そのさらに奥には個室があるようです。壁には、映画のポスターや、女優さんのインタビュー記事などが貼ってあり、カウンターの上を見上げると、有名人の色紙が目に入ってくる。
それを辿っていくと、中村信郎とある。小津映画でもおなじみの名優さんです。
飲み足りぬとて 気の合いし 朧かな
朧なる春の夜に、朧なる酔い心地の私がひとり、どうも飲み足りぬ――。そんな感じか?
いい句だなと思い目を横に移せば、
足のある オサカナ
という文字の横に、四本足の魚のイラストが描いてあって、この作者名は、別役実とある。日本の不条理演劇の先駆者として名高い劇作家だ。
さらに横に目を転じますと、色紙の最後の行のお名前は、北村和夫さん。今村昌平監督作品で数々の名演技を拝見している、こちらも名優さんだ。
この店、演劇酒場なのか……。
取材を受けていただいた店主の杉本茂さんに伺うと、杉本さんは店主としては3代目であり、2代目はその昔、文学座の俳優さんだったという。やはり、演劇関係の方たちが集まる酒場だったわけだ。
ビールは、昔からずっとこれ
杉本さんは昔、20年ほどこの店に通った常連客だったといいます。
10年前、古くなった建物の建て替えもあって、店を畳むという話が出たとき、常連たちが集まり、なんとか残したいという話になった。そのとき、都内の高校の教員をされていた杉本さんはすでに定年の歳に達していたので、じゃ、俺がやるかと、決心したそうです。
杉本さんが店主になってから大きく変わったのは日本酒のラインナップ。ざっとメニューを見渡しただけで、伯楽星、鶴齢、田酒、飛露喜、紀土、豊盃、冩樂、亀齢(広島)、日高見、新政no.6など、いい酒がずらりと並んでいる。
一方で、ビールは、昔からこれ、と杉本さんは言う。
「サッポロの赤星、大瓶、ずっとこれです」
ありがたいねえ。東京では、古い酒場ほど、昔から赤星だという店が多いような気がする。私にとっても、安定の味だ。いつものビールなのであるから、ひと仕事終えた夕刻、その日最初の一杯がするりとスムーズに入る。
いつもの味、いつものうまさ、それが、ありがたい。
季節ですから、ソラマメをいただくことにします。
鞘ごと焼いた熱々のソラマメに軽く塩をつけて口へ運べば、ホクホクして、ほろ苦くて、青い匂いがプンと上って、ほんのりしょっぱい。
新鮮なものを買ってきて焼けばいいだけの簡単なつまみですが、豆好きの私などはいくら食べても飽きない。ビールのつまみはソラマメオンリーでなんの不都合も感じないくらいだ。
壁にある、本日の心づくしと書かれたメニューに目を向けると、キタアカリポテトフライ、手羽先のから揚げ、焼き厚揚げ、納豆包み揚げ、牛タンみそ漬け、ホタルイカ酢みそ和え、厚切りベーコン、里芋の浸し揚げ、〆サバ、漬け物盛合せ、塩ゆで落花生とある。
好きな物ばかり。さて、どれにするか。
嬉しい悩みをしばらく抱えつつ、ビールをまた一杯。
「里芋の浸し揚げをください」
揚げびたし、でなく浸し揚げです。なんだろうって思いますが、里芋を出汁に浸しておいてからカラっと揚げるだろうなあ、と、思う浮かべるのも、一品を待つ間の楽しみです。
文学座かァ。大学時代の英文科の同級生が、たしか文学座に入ったな。きれいな人だったな……。などと、いったんは役者に憧れて入った大学で、トライもせぬまま役者を諦めた根性なしの私は、はるか40年前を、また思い起こす。というのも、ご主人の杉本さんが同窓であると聞いたからで、近頃、何かと懐旧しがちな私としては、自然な流れなのでした。
そこへ、お待ちどう様、のひと声とともに運ばれてきた皿を見て思わず笑みがこぼれます。
片栗粉をまとって軽く揚がった里芋がそこにある。口へ入れると芋にじわりと上品な味がついていて、なるほど、浸し揚げ、である。
これもまた、今どきの若者が好む“映え”からは遠いシンプルな見た目ではあるが、私の好みの中ではかなり上位に食い込んでくるうまさであります。
「千草」ならこれを喰うべし
嬉しいやな。こういう展開は。などと早くもありがたがりながら店内を見まわすと、雑誌記事が貼り付けてあった。記事でインタビューを受けているのは女優のキムラ緑子さん。
じつは私、ファンなんですけれども、キムラさんはこの店とはお長い付き合いのようで、あるおつまみのことを話している。それが、千草巻きという品だ。
「最近は、韓国からのお客さんが多いんです。若い方ね。SNSかなにかで見て来られるのだと思いますが、注文がみんな同じなんですよ。千草巻き、それと、焼きそば、つくね。みんなこれを頼むんです(笑)」
コリアン・インフルエンサーが、新宿「千草」ならこれを喰うべしと強力にリコメンドしたのでしょうか。
以前、十条のもつ焼き屋で、いきなりひとりで訪ねて来た外国人にも驚かされたことがある。日本語ができないみたいだから、店の大将が店内をぐるりと見渡して、ああ、センセイの横でいいね、と、私の隣へ座らせた。
ちょっと待ってよ、困るよ、と言う間もない。こういうときだけセンセイなんて言われるのも、シャクな話なんだけれども、こちらが戸惑うのもお構いなく、その外国人青年は私の隣に来て、にこりと笑った。オーストラリアから来たんだそうで、何もわからないみたいだから、教えなくてはいけない。
タンはタンだろ、ハツはハート、レバーはリバーだ。カシラはチークでいいか、ナンコツはなんて言うんだ? ソフトボーン? そんなわけない、腸は? ガツ? ガツは胃か? グレープフルーツサワーはジャパニーズ・ソルティドッグでいいか……そんなこんなで大汗かいた。
それはともかく、千草巻きがやってきた。
少し太目の海苔巻きで、見ると、マグロのやまかけの海苔巻きという感じ。
「ヤマトイモとマグロと、ワサビと大葉を巻いてあります。少しお醤油をかけてどうぞ」
口に入れると、軽くて、さっぱりとしていて、噛むほどにマグロに続いてやまかけの旨みも広がってくる。
なるほど。麻雀などをやるときには鉄火巻なんかがつまみやすいけれど、この千草巻きも取り分ける必要がないからみんなで頼んで、食べたいタイミングで手をのばせばいい。仲間内で賑やかに飲むときなど、うってつけかもしれない。
続いて出てきましたのが、牛タン入りつくね串。これはもう、見るからにうまそうで、ビールに合いそうな一品。実際、相性は抜群です。
さきほど紹介したインタビュー記事にあったのですが、キムラ緑子さんはかつて、紀伊国屋ホールで公演があると、芝居の後にここへ来て飲んだという。東京へ出て来たのが30代だったから青春というには少し遅いけれど、仲間と楽しく飲んだ場所。そんなふうに答えていた。
みんなで情熱をこめて何事かをやり遂げて、終わったらまずはビールで乾杯。おいしいつまみで空腹を満たしたら、あとは大いに語り合う。ひとり飲む酒もいいが、千草で飲む赤星には、賑やかな場もよく似合う。
年齢はいくつになっても、青春の輝きを取り戻し、少し照れ臭いが、なんとも懐かしい初々しさで何事かを懸命に語る。仕事のこと、家族のこと、旅のこと、人生のこと。話せば尽きぬことが、それこそ山ほどある。
戦前に開店し、戦争で焼かれ、復興し、長い歴史を刻んで、建て直しも経て、今なおこの地にある一軒の酒場。そういう、ありがたい場所で、この春、友人を誘って、うまいビールを飲みたいものです。
(※2023年3月30日取材)
取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行