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100軒マラソン File No.16

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

「魚貞」

公開日:

今回取材に訪れたお店

魚貞

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その昔、京王線には、芋虫みたいな緑色の車両が走っていました。東急車両の有名な型かと思いますが、井の頭線と京王本線の各駅停車は、この、かわいらしい緑の電車だった。

記憶にあるのは、床が木の板だったということ。緑の電車の中でもひときわ古い車両であったかもしれませんが、黒々と油の敷かれた床はかすかに匂うようでもあったという記憶があります。

小学校に上がるころ、高尾山へ連れて行ってもらうときは、仙川駅からこの緑の電車に乗って次のつつじヶ丘か調布で乗り換え、調布から先は急行の高尾山口行きの先頭車両の運転台の後ろにへばりついていたものです。

あの、懐かしい緑の電車がいつまで本線で走っていたか確かな記憶はないのですが、緑の電車のころで思い出すのは、現在では京王新線の駅になっている幡ヶ谷、初台の2駅が地上駅だったことだ。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

いつから地下になったかなと、ネットで検索してみると、昭和53年とあります。昭和38年生まれの私が15歳のとき。今から数えると、もう、39年前のことになる。

それから3年後の昭和56年。つまり幡ヶ谷駅が地下駅になって間もないころにあたりますが、1軒の居酒屋が開店している。

店名は「魚貞」。駅の北口から地上へ出てすぐ。雨が降っても駆けこめばほとんど濡れないくらいの便利なところにある。

■ここではクジラを喰わなきゃ損

店は今年で37年目。すでに老舗であるけれど、店内に入ると、意外に大きな箱である。

入口手前左に個室の座敷、正面左は10名ほどがゆっくりと腰掛けられるカウンター席。その背後には小上がり、奥に半個室的なテーブル席もあり、2階では30名ほどの宴会も対応できる。この大きさを見て、流行った店なんだなとわかる。

カウンターの上には、築地の仲卸の屋号を漆文字で浮き彫り風に揮毫した立派な千社額が掲げられている。飲み屋さんでこういうものを掲示している店は昨今、だいぶ少なくなった。これは卸の魚屋さんとの深い付き合いを物語るものだ。

 

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

「先代は新宿で4、5店経営した店の仕入れを担当していた人なんです。だから、顔が広かったんですね」

そう語るのは、現当主の石川宏之さん。先代というのは石川さんの奥様のお父さんで、「魚貞」の創業者である。

ところが、およそ10年後、先代が身体を壊し、築地の仕入れという大きな仕事が、まだ30歳そこそこだった石川さんの肩にかかった。

「まだ若いころですからね。信用をつくるのに、ずいぶん時間がかかりました。先代が取引をしていた業者の方からはバカにされるんです。だから築地の中でも若い人や、新しい仲卸と付き合ったりもしました。今はもう、いろいろ無理も聞いてくれますけどね」

石川さんは穏やかな表情で語る。店を開いて37年目の老舗。その暖簾を守ることは、並大抵なことではないと、想像がつく。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

店名にもあるとおり、店の売りは新鮮な魚介であるが、メニューはかなり幅広い。そしてクジラ。ここへ来たら、クジラを喰わなきゃ損だ、と思わせる、

さらしクジラ、クジラベーコン、刺身もカツもいい。けれど私はやはり、ここは竜田揚げだなと思うのだ。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

「小学校の給食で、竜田揚げが出たんですよ」

懐かしさから石川さんにそんな話をしてみる。すると、私より8年先輩の石川さんも、そうそう、給食でしたね、と答え、続けて、

「脱脂粉乳、飲みました?」

いや、さすがに、私のときは牛乳でした、とも言えず、なんとなくへらへらしながら、クジラの竜田揚げと瓶ビールを頼む。

こちらの瓶ビールは、ご存じサッポロラガー(大瓶)とエビス(中瓶)のみ。赤星を置くのは、先代の新宿時代からのことという。

「最近、驚きますよ。赤星の人気がこんなにすごいのかって」

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

ほどよく冷えた大瓶からグラスに注ぐ。お通しはホウレンソウ、シメジ、タコ、メカブの和えもの。

3月だから、まだ、貝類がうまい季節。ツブも赤貝も地ハマグリにも目がうつる。この日の仕入れによって変わる壁の品書きの上段のいちばん右に、三点盛り、とある。カッコの中は、赤貝、かんぱち、石鯛とある。

いいですねえ。市場に出た、その日のいいネタを仕入れていると、期待を抱かせる。迷わず、これを注文します。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

■地味だけれど、確実にうまい品々

さて、乾杯だ。ひとりで飲みに出かけても、まずは、お疲れさんという気持ちを込めてグラスをあげる。これが、酔っ払い歴30余年の私の流儀。

今日もよく頑張ったな……。そんな思いを自分にかけてやるんですが、なに、そんなに頑張らなかった日でも、お疲れさんと言ってやるのです。

お疲れさんのビールくらいうまいものはないと、いくぶん芝居がかるくらい盛大に喉を鳴らして飲む。そのうまさは、私たちの父親の世代から受け継がれてきた、ニッポンの伝統である。そんな大袈裟な話ではないけれど、それくらい、この一瞬はいいものだなと、私は思う者なのです。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

赤貝がうまいですよ。コリコリとして、新鮮で、実にいい。かんぱちの脂の乗りも、石鯛の、さっぱりしているのにしっかりとした深い味わいも、申し分ない。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

大瓶のビールを頼んだけれど、どんどん減っていく。

開店直後の広い店内で、まだ、喧騒に包まれることもなく、じっくりと酒肴を味わう。その愉楽はやはり、比類ないものだ。

2本目のビールを飲み始めるころ、やってきました。クジラの竜田揚げです。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

小学校の教室で、銀色のアルマイトの皿に無造作にごろごろと転がっていた、甘辛の竜田揚げを思い出す。あれをおかずにしてコッペパンと牛乳という昼飯を喰っていた昭和40年代を思い出す。

けれど、違うのだ。魚貞さんの竜田揚げは、あれじゃない。しょうゆ味で、生姜の風味をきちんとつけた逸品で、ビールに合い、酒に合い、白い飯にのせて食べるにもいいと思わせる。これは、うまい。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

私らと世代の近い人たちには懐かしいクジラであり、同時に、今まで味わったことのない新鮮なクジラもあるだろう。この新しさは、実は若い人にも受けているらしい。

「クジラを食べたことがないという若い客さんが食べてみて、好きになることがけっこうありますよ」

クジラを食べるのは、日本人の食の伝統。世界の人々と仲良くしたいけれど、食うなと言われて「はいそうですか」と簡単にひきさがれるものでもない。ノルウェーと我が国の総力を集めて、「はいそうですかとは言えない同盟」を結成すべきではないか、なんてことを考える。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

お勧めの酒、「尾根越えて」をいただく。愛媛県の山間の蔵でていねいに醸される地酒は、口当たりも柔和な、おいしい酒だ。

そこに、山形県名物ともいえる玉こんにゃくを添えてみる。ご主人が山形市内のご出身ということで、夏野菜を細かく刻んでとろみも加えた「だし」も、奴にのせて出してくれる。愛媛と山形の、土地が生んだ滋味を、幡ヶ谷の酒場で味わう。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

いい気分になってきて、新筍の木の芽焼きを追加。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

春を存分に楽しんでいると、平子イワシを炙ったものが出てきた。これは新物。香ばしく、苦味が少なく、それでいて、味わいは濃い。つまり、酒に合うのだ。もちろんビールにも。

築地との長い付き合いが、こうした全国の味を提供してくれる。魚の目利きたちが選んだ、地味だけれど、この時期、確実にうまいと思わせる品がさりげなく並ぶ。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

■長く続く酒場のありがたさ

この連載を始めて何度も思ってきたことだれど、普段通りすぎている街に、こんなにいい酒場があったのかと、また驚く。

店は、近くの企業や劇団の関係者からも愛されてきた。春は、新人を迎え、去る人を送る季節でもある。連日の歓迎会があり、送別会がある。ある人は、この店の味わいを胸に刻んで去り、ある人は、この店に出会ってうまいものを知る。それが37年にわたって繰り返されてきた。

これから社会へ出るか人がいて、現役を引退して街を離れる人もいる。酒場は、去る人を送り、来る人を迎える。飲兵衛が足繁く通い、店に馴染む時間というのは、そう長いものではない。けれど、そこにかつて馴染んだ酒場があれば、いつか、何かの機会に訪ねることができる。そこが、長く続く酒場のありがたさだ。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

この店に魅せられた韓国からの留学生がいると聞いた。いたく気に入って一升瓶をキープするほどになった。しばらく来ないなと思っていると、後に来た時に、母国からの仕送りを待っていた、なんて、可愛いことを言う。

ある学生はこうも言ったという。

「徴兵があるので、国へ帰ります。だからしばらくは来られません」

そんな話を聞くと、無事に兵役を終えたらぜひまた戻っておいでよと、声をかけたくなる。その際には、オジサンに一杯奢らせてくれよ、と伝えたいのが人情だ。

早くも酒が回ってきたのか。日本のオジサンは、会ったこともない韓国の青年に語りかけたくなっている。

幡ヶ谷のクジラに時のうつろいを思う夜

取材・文:大竹 聡
撮影:須貝智行

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